Phasemation フェーズメーション

colums会長のコラム

会長のコラム 085

南イタリア旅行

1. プロローグ
イタリアへの旅行と言うと、オペラ鑑賞以外に目的を持った事は無かったのが最近の傾向でありましたが、塩野七生の「ローマ人物語」を読み終えて久しいこの時期に、歴史の一片でも良いから訪ねてみたいとしきりに思うようになりました。これは、この先何時まで健康でいられるのかとの思いが先行しての結果であります、そこでオペラ鑑賞は別にして、今回は観光名所と歴史探訪を兼ねての旅行を実行する事にしました。

2. 旅の始まり、ブリンディジへ
旅の始点は、帝政ローマ時代の幹線「アッピア街道」の起点でありますブリンディジからスタートする事にします。ブリンディジへは、ミラノ・リナーテ空港から行くのですが、ミラノ・リナーテ空港は大型航空機の発着が出来ず、日本からの直行便はありません。今般は、当社のドイツ現地法人のあるフランクフルトで、所用を済ませフランクフルトからミラノ・リナーテ空港に飛ぶ事にしました。
2月19日にフランクフルトからミラノ・リナーテ空港に行き、ここでトランジットしてブリンディジへ行く計画で、リナーテ空港の出発ゲートにてスルーガイドの由子さんと待ち合わせの約束をしていました。さて予定通り飛行機は、フランクフルトを出発しましたが、この日のリナーテ空港は霧のため定時を可也遅れての到着となってしまいました。ブリンディジへの出発便も遅れていたために、ギリギリでキャッチする事ができたのですが、荷物の乗換えにし支障をきたし、家内の荷物がリナーテ空港に積み残しになってしまいました。クレーム交渉の結果ブリンディジへは翌日の便にて配送するとの事で落着しましたが、出だしから嫌な展開となってのスタートとなります。

3. 旅の始点ブリンディジ
旅の始点となるブリンディジは、イタリア長靴半島の踵アキレス腱のあたりで、古代ローマ帝国のアッピア街道の始点であり、ギリシャと最も近い港、そして中世には十字軍の発進地でもありました。ここでナポリまでの車をチャーターし、私、家内そしてスルーガイドの由子さんと3人の10日間の旅が始まります。
スルーガイドの由子さんを紹介しましょう、彼女はソプラノ歌手としてイタリアに勉強に来たのですが、途中で人生の方針を変えてガイドになり、現地で結婚して家庭を築いています。イタリア語はぺらぺらでオペラや音楽にはめっぽう詳しく、今回で4度目のガイドをお願いする事になります。ただ、「ローマ人物語」は未読でそれが唯一難点であります。
宿泊地は、空港から車で30分ほどのバロックの町レッチェです。この町は第二次大戦の被害を受けずに、中世の町並みがそっくり残っており、古代ローマ時代の競技場遺跡なども有って、こじんまりした町に見所が集積しています。日本人はあまり見かけませんが、ヨーロッパ、アメリカの観光客が地図を片手に歩く姿を多くみかけました。
ホテルは、パトリア・パレスと言うサンタクローチェ教会の前で、部屋からはライティングされたバロック様式を代表するこの協会を眺めることが出来て、中世の町なかにいる気分を味わうことが出来ました。ここを基点として、イタリア半島最南端の町オトラント、イオニア海に面した町ガリポリへ行きます。
この辺りは、古代ローマ時代は、最も平和で豊かなイタリアの安全な地であったのですが、その帝国が滅びて以来何世紀にも渡ってイスラムの海賊に襲われ、庶民が拉致されると言う悲惨な目に会った地域であり、自衛のために築いた砦の跡が残っております。ローマ帝国以後の中世の永い間イスラムの無法に泣かされた地域であります。

中世の街並みレッチェ

4. アルベロベッロ、マテーラ
レッチェの町に2泊してアルベロベッロに向かいます。この町は世界遺産に登録され、NHK-BSでも紹介されて日本でも観光地として有名になりました。何故ここの地この様な特殊な住居が密集したのかは、ここの領主が人頭税を誤魔化すために簡単に壊せる住居を奨励したと言われています。しかしこの写真を見てください。

アルベルベッロの街並

観光地化されたとは言え今でも多くの人が実際に住んでおり、これだけ多くのトゥルッリが並ぶと、恰もお伽の国に来たような錯覚に陥り、改めて、遠くイタリアまで来たものだと、つくづく思ってしまいます。我々もこの近くのホテルでこのトゥルッリの部屋に宿泊しましたが中々居心地の良い住居でありました。
ここアルベロベッロで1泊して、洞窟の町マテーラを経由して次の宿泊地プーリア州の州都バーリへ向かいます。洞窟の町マテーラもNHK-BS放送にて紹介され、日本からの観光客も多いとの事です。ここマテーラは、プーリア州とバジリカータ州の境界で2分されており、それが問題を起こします。我々の運転手が自分の免許はプーリア州のもので途中までしか行けないと言うものですから、冷たい雨の中を歩くしか有りませんでした。比較的早い時間であった事と冷たい雨でもあり、観光客は全く見かけません。とぼとぼと寒い雨の中を洞窟の並ぶ異常な光景の町なかを歩いて行きます。そして中心地のドーモ近くのバールで飲んだ熱いコーヒーの美味しかった事が忘れません。また帰りも同じ道を歩くのは大いに抵抗が有り、近くに居たポリスに事情を話したら、何の事もなく車を入れて良いとの事、早速運転手に電話をして中心地まで迎えにきて貰いましたが、だったら、始めから言ってくれよと思った次第です。
この洞窟の町もさすが観光地で、洞窟を利用したホテルが有りましたが、とても快適な居住とは思えません。商魂は何処でも同じですね。洞窟の町を見学して、この日の宿泊地バーリに向かいます。

洞窟の町マテーラ

5. 州都バーリ
バーリへ到着し、市内見学に出掛けす。貴重品をホテルの金庫にしまって、カメラ、電池、傘その他かさばる身の回り品をショルダーに入れて出掛けるのですが、市内は治安が悪そうで何か嫌な感じがして、警戒はしていたのですが、後ろからタスキに掛けたショルダーバックを強引に引きちぎられ奪われると言うハプニングに会います。重要なものは入っていませんでしたが、カメラは兎も角として中の写真が残念でありました。しかも、強引な引きちぎりによってバランスを崩した瞬間に転んでしまい小指の骨折寸前ひび割れの怪我をしました。やった人間は明らかに中東系と見える男です。たまたま、塩野七生の小説を読んでいた時にイスラムと言うのは何と悪い奴等だと思っていたものですから、関係は無いものの、やっぱりそうだったのかと思えてしまいます。しかもその時落とした携帯を拾って私を追ってくれたイタリアの親切な女性と比較して、益々イスラムのイメージは悪くなります。
古代ローマ帝国の滅亡後にこのイタリアを襲ったイスラムの海賊、だからイスラムは何時の時代でも悪い事をすると決め付けるのは良く無い事ですが、今回の旅も塩野七生さんのイスラムの海賊に犯されたイタリアの旅がテーマでありますから何かの因縁でしょう。もし私のショルダーの金具が壊れなかったら大怪我をした事は間違いないから、運が良かったと思うようにしています。ヨーロッパの都市で悪い事をするのはその土地の人ではなくジプシーや外国人である事が一般的のようですから、狙われ安い日本人は特に気を付けるべきです。そんな事で、ここバーリでは、一転して嫌な気分になってしまいました。

6. ナポリ
ここバーリで1泊して翌朝は一路ナポリへ向かいます。途中カゼルタの壮大な離宮を見学する予定でしたが、前日の災難が影響して気が乗らず、ひたすらナポリを目指します。およそ4時間程ベンツのE350にて高速道路を快適にドライブします。そしていよいよ、ナポリ湾が見えてきます。高所から見る卵城を中心にした写真を見てください。

ナポリ湾

素晴らしいナポリ湾の光景に出会い、昨日の嫌な思いも吹き飛んだ感じであります。そして、この美しい景観と相反する治安の悪さと雲助タクシーのナポリの町をこれから経験する事になります。
ホテルにチェックインして、早速評判のピッザの店に遅い昼食を食べに行きます。ここはピッザの専門店で流石に旨くて大きい。現地の人は一人で一枚を平らげますが、我々は食べ切れませんで3人で2枚それでもきつかった。
腹ごなしに王宮とヌオーヴォ城、オペラ劇場などの比較的治安の良い場所を歩いて見学します。
さて明朝は、舟でカプリ島に行きますのでここまで同行してくれた運転手さんとは一旦お別れです。別れ際にタクシーは気をつけろ、街中の治安悪い場所などを由子さんに細かく注意していました。日本で購入した観光案内書によると、最近は良くなったと書いてありますが殆ど実態とは違います。
ここまでくると、そろそろ日本食が食べたい、本場のピザが食べたいと言う事で、街を歩かない訳には行きません。由子さんもミラノ地区のプロのガイドですから、ここの大よその事は判っています。いよいよ町に出ますが案の定可也治安が悪そうで、私はバーリでの実績も有りますから怖気付きます。極力タクシーを利用しますが、そのタクシーも殆どが雲助で、支払い時は運転手と由子さんは決まって口論です。事情の判らない観光客にはたまりませんね。

7. カプリへ
翌朝、私たちはナポリ港から船に乗りカプリ島へ行きます。波が高く船は結構ゆれまして船に弱い私はダウン寸前で到着し助かりました。そんな訳ですから青の洞窟への観光船は欠航です。絶壁に囲まれたカプリ島の僅かな場所に船着場があり、観光客の多さの割に狭いスペースはこのオフシーズンでも結構混み合いますから観光シーズンになるとどうなのでしょう。
カプリの町は、シチリアのタオルミーナを小さくした感じですが、やはり、タオルミーナとは格が違います。この船着場の反対側のANAカプリまでバスに乗って行きます。このカプリ島は周りが断崖で、その岩壁にへばりつくように町ができています。私のつたない写真を見てください。

カプリ島

古代ローマ帝国の皇帝が愛した土地であります。当時は、天に近い未開の荒地として精神修養のためにとか、為政者の威厳のためにとか言われているのが、皇帝がここに別荘をつくった理由として語り継がれています。
また、この絶壁に囲まれた小さな島のアナカプリでは、リモンチェーロと言うグラッパのような食後酒の一種でレモンを主体とするお酒の産地であります。このリモンチェーロは、イタリアを代表する酒と言っても良いでしょう。空港などの土産店に沢山並んでいます。
訪れた日は、生憎ガスが立ち込めて見通しが悪く、皇帝が愛したこの島の特徴を堪能することは出来ませんでしたし、その別荘跡地を訪ねる事も出来ませんでした。

8. ソレントへ
この日は、再び船に乗りソレントに行きます。ソレントへはナポリへ行くよりも凡そ半分の時間で行けますので、船に弱い私にとっては歓迎であります。
海上からみるソレントは、断崖絶壁に囲まれた町でありまして、何処に船を付けるのか不思議な地形であります。船からの光景を見てください。

海上からのソレント

その桟橋の場所はいまでは2箇所だそうで、昔は1箇所しか無かったとの事です。この町は、シーズンオフと言う事もあるのでしょうが、落ち着いた上品な町、そしてベスビアス火山が正面に見える町、騒然としたナポリとは雲泥の差を感じます。次に来るときは、此処に宿を取って青の洞窟やカプリ島の皇帝別荘跡に再挑戦したいと思います。次に来るとき?、それは私の歳を考えるとそう遠くない日を選ばなければ成らないでしょう。
翌朝は、ポンペイを経由してナポリに帰ります。そして、バーリからの運転手が再びホテルに迎えに来ます。さて、そのポンペイの見学でありますが、ポンペイ遺跡は、見学用に整備されており、入り口の近くに来ると先ずガイドのセールスが近寄ってきます。日本語のガイドを希望しますが居ないとの事。由子さんも充分知識はありますがここでのガイドは法律違反となります。ガイドの費用は100ユーロ。折角ですから頼む事にします。
ガイドはイタリア人でイタリア語であり、我々には全く解りませんので由子さんの通訳に頼ります。ここの発掘された場所は、全体の65%で残り35%は後世の学者のために残してあるのだそうです。そして、遺跡の保存方法が今のやり方で良いのかどうかと言う事に疑問があると言っていました。それは、私も感じた事です。この遺跡を見ても極端な表現をすれば、期待したものは何も無いと言って良いでしょう。と言うのも壁画などは全て切り取って、ナポリの国立考古学博物館に展示されています。その他当時の日常品なども整理されてガラスケースに収められています。ですから、現場には何も無いのです。
しかし、当時の生活水準が大変高かった事が想像されるので、この跡地見学は勉強になりました。公衆浴場の跡などは正確に残っていますし、何と言っても上下水道の跡などは、当時の鉛管などが残っており、文献による生活レベルの高さを見る事が出来ます。古代ローマ時代の生活レベルは、戦乱に明け暮れた中世に至って低下し、生活の文化度は1000年の逆戻りと言われる所以が理解できます。それは、恰も平和が如何に大切か、そして平和を守る術は何だったのか、もちろんローマ帝国は強靭な軍事力でありましたが、その手法は現代に通用するのか、平和の維持では少しも進歩していない人類の現状など、多くの人に視点を変えてこの遺跡を見学して貰いたいものだとつくづく考えてしまいました。
チャーター車のバーリからの運転手は、ソレントの人だそうで私が次に来るときはここを基点として考えたいと言うとその通りだと大変機嫌が良くなり、打ち解けてサービスも最高です。そして、この日はポンペイを経由して再びナポリに、ナポリの食とワインを楽しむ事になります。

9. 再びナポリにて
翌朝、チャーター車がホテルに迎えにきます。運転手さんともすっかり人間関係が出来て、ボンジョルノと挨拶。
ナポリ近郊のガゼルタに向かいます。18世紀ナポリ王国・ブルボン家のカルロス3世とその息子が築いた宮殿レッジャであります。フランスのベルサイユ宮殿を参考に建築家L・ヴァンヴィテッリが手がけたと言うもの。宮殿は1200もの部屋があり、その一部が公開されています。そしてその庭園は、3kmに渡る歩道を中心に、池と噴水滝が配置された庭園が広がっております、私達はそこを馬車で巡るのですが昔の王様はなんと優雅な生活であったかと思うのですが、これも国威高揚の目的が主だったのでしょう。しかし、この様なものが今日に残ることは、市民にとってかけがいの無い財産であります。
午後は、ナポリ市内に戻り、国立考古学博物館に行きます。ここは、前にも話しましたようにポンペイ遺跡を主に展示しており、遺跡見学とペアーで訪れることが必須であります。入り口では、ガイドのセールスが出迎えます。私達は当然日本語のガイドを希望します。紹介されたガイドは、イタリア人でありますが、日本の文化を研究している大変日本語が堪能なガイドで、日本人のマインドを理解しつつ丁寧な解説は印象に残るものでありました。ポンペイの遺跡は当時の日常生活をそのままフリーズしたとも言われ、ここにこないとその実感を味会うことが出来ません。当時の生活レベルが高かった事は想像以上でありまして、高度な美術品、ガラス工芸品と日用器具、医療機器、など現代のものとは作りが幼稚なものの、この様なものが当時から有った事に、改めて感動するものであり、暗黒の中世を経由した人間社会から得るものは有ったのか、我々現代に生きる者として深く反省する必要を感じます。
この国立考古学博物館の近辺は、特に治安の悪い地域で運転手さんの気配りで正面玄関に横付けしてくれました。私はバーリでの体験から特に敏感になっており、私から「このまま、ミラノ迄行ってくれ」と言われ無いように、細心の注意をしているのだと皮肉を言われる有様。そして、ホテルに送ってもらって、今度来るときも頼むねと、ここで運転手とは別れる事になります。
この日は、最後のナポリです。思い切り美味しいものと美味しいワインを飲もうとあれこれ思うのですが、結局ホテルの最上階のレストランで卵城の浮かぶナポリ湾を眺めつつ最後のナポリの晩餐でありました。

ホテルからの卵城

10. ミラノから帰国の途
翌朝、もうあの運転手は来ません。タクシーで空港へそして国際線でミラノ・リナーテへ行きます。
私は、ミラノに何度来たのだろう。最初は若い時期にベンチャー企業訪問だったと思います。その時、将来はこのミラノスカラ座にオペラ鑑賞の為に来ることを夢見たものです。それが実現し今ではこの旅の様にオペラ鑑賞の無い旅でありました。明日は、成田への直行便で帰国します。帰ったら日本食をあれも、これも食べるのだと思うのですが、考えてみるとたったの10日ですから、自分でもあきれます。
ここミラノでの目的は、私はワインの買出し、家内はお目当ての買い物です。ワインなど日本でも買えるし運送料を考えると安く有りません。だから、皆さんが私に「何考えているんだ」といいますが、そう言うものでは有りませんで、ワインなら何でも良いというのではなく、ここでなければ買えない物があるのです。
家内も同じように、ブランド品を買うんじゃないと、ここで無ければ代えないものだと言います。ミラノは治安が悪いし、ホテルは高いしオペラ以外に良い事は無いのですが、これがミラノなのです。

11. 追記
つたない文章表現にお付き合い下さり有難うございました。また、私の旅が高価なもののようにみえるでしょうが、決してそうでは有りません事を付け加えます。飛行機は、ビジネスクラスですがマイレージによるアップグレードです。ホテルは上級クラスですが全て現地の価格で旅行社の手数料無しのうえ極端な円高です。ガイド料も旅行商社のマージンなし、その他全て商社マージン無しです。〆てみるとビジネスクラス利用の旅行社ツアーの4割安です。
マイレージのため方、アップグレード席の取り方にはコツがあります。またの機会に書きましょう。

鈴木信行 :すずき のぶゆき

昭和45年勤務先のアイワ株式会社をスピンアウトして独立。

磁気記録に関る計測機器の製造販売の事業を開始し、その後カーエレクトロニクスの受託設計の事業を始める。

何れの事業も順調に発展したが、会長の永年の思いであった、ハイエンドオーディオの自社ブランドを立ち上げ、現在はカーエレクトロニクスの事業を主とし、協同電子エンジニアリング(株)として運営している。

現在、協同電子エンジニアリング(株)の取締役会長として、趣味のオーディオを健全に発展させたいと真摯に研究し、開発に勤めている。

インタビュー掲載

コラムアーカイブ