会長のコラム 125
メキシコ版
3/18成田発にてメキシコに発ち、3/29に帰国しました。帰国後に体調を壊してしまい、コラムのアップが遅くなってしまいました。
このメキシコ旅行は、黒沼ユリ子さんのメキシコでの音楽活動50周年を記念して、[ゴールデン・アニバーサリー・コンサート]が開催され、招待を受けて行ってきました。
招待のお話を受けたときは、遠いし年も年だしと、初めのうちは消極的でしたが、一度は行ってみたい所でもあり、黒沼ユリ子さんの強い勧めも有って重い腰を上げ家内と行って来ました。
黒沼ユリ子さんは、1940年生まれで1956年に日本音楽コンクールバイオリン部門で優勝されました。御年16歳のときで、それが昭和31年です。日本中が貧乏で、荒地のなかの一輪のユリと言う感じであり、今流に言うアイドルでありました。
そのファン層は、その時代から押して考えると、当たり前ですが当時のオジサンや大学生と言うことでありまして、後年ノーベル文学賞をいただくような方々を含む、厚いファン層に支えられた人です。
コンクール優勝後は、桐朋学園在学中にプラハ音楽アカデミーに留学し1962年に同校を栄誉賞付で卒業されました。在学中に、メキシコ人の学者と学生結婚され、それが黒沼ユリ子さんのメキシコとの関わりとなるわけです。
私のメキシコに付いての関わりは、軽薄そのものであり、トリオ・ロス・パンチョス、マリアッチ楽団と言った音楽を通じて陽気なメキシカンの印象、そしてココアやコーヒーと言った嗜好食品、バナナ、オレンジ、パパイヤと言ったトロピカル・フルーツの印象から、中南米のリッチな環境のイメージを持って、一度は行ってみたい憧れの土地でした。
メキシコ市は、ハワイより南に位置し標高2000mと言うとても住み心地の良いところです。しかし、現地を見て驚いたことに、治安が悪いし国民は貧乏で失業率も高い、これは一体何だろうと思いました。それは、この国の歴史を紐解くと理解出来のですが、詳しくは、黒沼ユリ子著岩波新書79「メキシコの輝き」をお読みいただくと理解できます。
次いでと言うと何ですが、同じ岩波新書の黒沼ユリ子著「メキシコからの手紙」をお読みいただくと、黒沼ユリ子さんの生活を通じてのメキシコ生活環境、社会情勢、そして何よりも黒沼ユリ子さんの人柄、志などが理解できて、アット言う間に読めてしまう内容で、黒沼ユリ子さんの皇室からの厚い信頼を得る原点を知って頂く事が出来ます、私からもお勧めの書であります。
さて今回の旅行ですが、ハプニング続きでこれほど苦労した海外旅行は、若い時期の貧乏旅行以来のことでした。
出発日の3/18は、アメリカン航空にてダラス経由メキシコ市への経路でした、出だしからトラブルで出発が8時間遅れ、成田空港で無駄な8時間を強要され、加えるにダラスでのトランジットで、これがまた入国審査に1時間以上かかり、入国セキュリティーにて裸足にさせられ、これまた小1時間かかると言う散々な目に。
その上ダラス、メキシコ間はビジネス席の予約にも関わらず、8時間の遅れ便ですから席が無い。出だしから哀れな目に会わされ、誰の責任でも有りませんから、怒りの持ってゆきどころなし、年寄りの悲哀を味わいました。
米国のセキュリティーに付いて一言、米国への入国ならいざ知らず、単なるトランジットなのに何故ここまで、と思うのです。皆様、航空機利用の旅行で、米国トランジットは、絶対に選択してはいけません。
さて、メキシコシティー空港に到着したのが夜10時でした。この日は、我々の歓迎パーティーが、黒沼ユリ子さんのお弟子さんのバイオリニスト「アドリアン・ユストフ」宅にて予定されていましたが、流れてしまい関係者の皆さんが残念がっておられたとのことです。
遅い到着にも関わらず、タクシーの利用は危険との事で、黒沼ユリ子さんのお姉さまの俊子さんが空港に出迎えて下さり、ホテルへと向かいました。ホテルには、遅い時間にも関わらず黒沼ユリ子さんご夫妻が、お出迎え下さり軽食を共にしてこれからの予定などをききました。
ホテルは、黒沼さんの見立てで、ヒルトンホテル・レフォルマで、此処はメキシコを代表するアラメダ公園に面し、コンサート会場の「国立芸術院」には徒歩で行ける便利な場所でした。
翌日は、ユリ子さんのアテンドで市内見物、そして、その翌日は西松君の録音作業のために劇場関係者との打ち合わせが予定されていました。西松君の仕事で、思わぬトラブルに備えて私も立会いましたが、結果的にその必要は無かったようです。
その後、休息して、ここ「国立芸術宮殿」にて民族舞踊公演の鑑賞をし、念願のレベルの高いマリアッチの演奏も行われ、家内共々大満足の公演でした。流石にこの劇場は、凄いもので、エントランスには国宝の壁画が美術館の様に展示されており、国立芸術院そのものと言う感じでした。
メキシコの壁画は過去の不幸を庶民にわかり易く表現し、記録する事を目的に製作されたもので、その芸術性は世界的に価値あるものとして賞賛されています。
ホテルから見下ろすアラメダ公園 右奥にみえるのが国立芸術院 |
国立芸術院の正面 |
国立芸術院のエントランス 壁画の展示が見える |
国立芸術院のホールの緞帳 見事なものであります 写真の腕が悪い、これから研鑽します |
前日到着の遅れで折角のご招待を受けられなかった アドリアン・ユストフ宅にて、私、家内と西松君 |
翌日からは、黒沼ユリ子さんは、コンサート「ゴールデン・アニバーサリー・コンサート」の準備で、そちらに手が離せません。俊子さんとわれわれは、朝の飛行機で世界的なリゾート地、アカプルコに向けて発ちます。
メキシコ市からは、1時間弱と大変近いところです。この日の夜は、アカプルコ交響楽団設立15周年記念コンサートが予定されており、ここにアドリアン・ユストフがソリストとして出演します。そのコンサート会場に招待されていました。
アドリアンは、黒沼ユリ子さんのお弟子さんで、日本でも紀尾井ホールにてリサイタルが行われ、皇后様のご観賞を拝している、今旬のメキシコ随一のバイオリン奏者です。そして、このオーケストラの関係者が、ここアカプルコにて2日に渡って我々をフルアテンドしてくれました。
さて、アドリアンの演奏ですが、彼は日本のリサイタルではいつも難しい曲ばかり演奏するために、私のような素人には馴染めないところが有ったのですが、当日は、チャイコフスキーのV協と言う事で楽しませて頂きました。
この人、やはり素晴らしい演奏者である事を改めて確認した次第です。このエキゾチックな南国のリゾート地でのチャイコフスキーと言うのも中々の感傷ものでありました。
2日間の世界有数のリゾート地での滞在は、旅なれた者にとってもなかなか経験する事の出来ない贅沢でありました、その観光記録を写真でご紹介します。
この狭いところに飛び込む | 飛び込んだ後はこの様に自分で崖を のぼり、飛び込み位置にもどる |
飛び込みを宣言する | 飛び込みのヒーローと写真に納まる 強烈な太陽に帽子が必須 西松君良く似合っている |
宿泊したリゾートホテル | アドリアンのコンサート |
ここで、2泊して翌日は、再びメキシコシティーのヒルトンホテルに帰ります。
そして、黒沼ユリ子さんのメキシコ活動50周年を記念した「ゴールデン・アニバーサリーコンサート」であります。
このコンサートに付いては、報道陣や出演者夫々の専属事務所の特権を侵す危険がり得ますので、ここでは記しませんが、素晴らしいコンサートであった事を付記するにとどめます。
コンサートが無事終了し、安堵したところで、何と、黒沼ユリ子さんのステージ出演中にハンドバックが盗まれると言う、信じられない事件に遭遇したことが判明しました。この劇場は、メキシコ1の名門劇場「国立芸術宮殿」であります。
日本の大使目賀田周一郎やメキシコ市市長が列席している公演中の事であります。治安の悪さは先刻承知でしたが、此処までとは思いもよらない事で、唖然としました。しかし、「これ誰の」との問いかけに2回返事が無いと、持って行っても良いとの不文律、陽気なメキシカンの社会と思えばそれまで。
翌日からは、黒沼ユリ子さんのアテンドでトラヤパカンの別荘に3泊の旅行が予定されていましたが、黒沼ユリ子さんの運転とアテンドは中止となり、黒沼ユリ子さんご自身がその足の確保にご苦労され、すっかりお世話を掛けてしまいました。
ここトラヤパカンは世界遺産の地で、奇岩が連なり、その奥には山頂から煙を吐くメキシコのシンボルのポポカテペトル山がみえます、そして世界遺産のサン・ファン・バウディスタ教会、これらすべてが黒沼ユリ子さん宅の屋上からみることが出来ます。
それはもう絶景であり、此処での夕日を眺めつつの晩酌は何者にも変え難いものでありました。これほどの町でありながら、交通の便が悪いためか、観光客は少なく極めて居心地の良い土地でした。
ここもやがては、グローバリゼーションによる近代化の波が押し寄せ、この静けさが壊されることになるような予感を感じてなりません。
黒沼邸屋上から見たポポカテペトル山 実は煙が出ているが撮影の腕が悪く写って無い |
屋上からは、このような奇岩が幾つか見える |
世界遺産のサン・ファン・バウディスタ教会 これも屋上からの景観 |
左手前から前方茶色の塀の先まで 黒沼ユリ子邸 |
翌日は、前日の事後処置を済ませた黒沼ユリ子さんご夫妻と合流して、彼女の案内で、タスコへ行きます。
タスコは、1524年に大銀鉱脈が発見され町の規模は一気に拡大され、豪華な教会や庭園が建てられ大繁盛するのですが、鉱脈が枯れると町は衰退し、静かなコロニアル様式の町として、外国人から注目を集めるようになり、現在では目玉観光地として発展しています。
トラヤカパンへの帰路、クエルナパカに寄ります。
タスコの町並み レストランからの景観です |
タスコの街中 まるで、ヨーロッパの町並みです これ、米国と国境を接した国、メキシコです |
ここクエルナパカは、平均気温20℃の常春の町として知られ、裕福層が週末を過ごす別荘地でもあり、歴史を背景とした遺跡もあって、典型的なコロニアル都市として発展してきた都市であります。この地を後にしてトラヤカパンに帰ります。
メキシコ料理は、世界の料理ランキングで、フランス料理を抜いています。我々の知るメキシコ料理は、米国での安物タコスに代表されるように、メキシコ料理と言えば辛くて安いものであります。日本でも決して美味い料理との印象は有りません。
しかし、主食のトルテーヤなどは、現地のものはまるで違います。我々がご飯に拘り、フランス人がバケットに拘る様に、彼等は、トルテーヤに拘ります。トルテーヤは、小麦を一切使わずトウモロコシ100%です。
美味しさには、想像以上の手間を掛けるからとの事で、最後の焼く行程にもコツがあって、家庭の主婦やレストランは、夫々に拘りの味を持っているとのことです。
黒沼ユリ子邸のメードさんの焼くトルテーヤは、どこの物よりも美味しいと自慢であり、確かに私達も癖になってしまいました。お蔭で、今回の旅ほど日本食を忘れさせる旅の経験はありませんでした。
手絞りの新鮮なオレンジジュース、地元のコーヒー豆、肉に魚、野菜と食材が新鮮で豊富です。その豊かな食材も日本の様にチマチマした使用量では無く、豪快に使った鮮な食材を生かした料理法ですから、この地で無ければ味合う事が出来ないと言う事、納得であります。
最後に、黒沼ユリ子さんのメキシコ市内のご自宅があるコヨアカンについて述べなければ成りません。
ここは、由緒ある住宅地で、訪れる観光客に、買い物客にと、その様相は住宅地に観光地とショッピング街が同居した様相で、一頃の吉祥寺の様相ですが、歴史遺跡が多いと言うことから、鎌倉に例えた方が適当かも知れません。
ここで、コーヒーやチョコレートをお土産に買いましたが、ここのチョコレートは無名ながら絶品でありました。ゴジバ、デメル、も足元に及ばない、コーヒーも日本にあるブランド物の1/5以下の値段で、味はそれ以上です。流石、原産地であります。お土産も、もっと大勢の方々にと、後悔しています。
さて帰国日ですが、フライトが午前5時発で、米国へは出発時間の3時間前にとのことですから、午前2時に空港に到着していなければなりません。
この日は、夕食をここコヨアカンにてユリ子さんにご馳走になり、ご自宅で仮眠させて頂き出発したのですが、ユリ子さん宅を出たのが。午前1.30、メキシコ空港を発ったのが午前5時、2時間で米国ダラスに到着、トランジットに2.5時間、そして成田まで12時間です。
米国と地続きとは言え改めて、遠い国を実感し、自宅に着いたときは死ぬほど疲れました。