会長のコラム 121
12月は、何かと気忙しい、しかるに、成果が残ったかと言えばその様な事も無く、不思議な月であります。
私の音楽ライフも結果として気が付いてみると、12月8日に八ヶ岳高原音楽堂での神尾真由子のコンサートだけでした。
当日は、土曜日でして、横浜から下る方向は車の移動の順方向であり、渋滞が予測されるので、予め前日の金曜に前泊する予定でホテルの予約を取っていました。偶然にも、中央高速のトンネル崩落事故で、なおさら、渋滞に及ぶ事になり、前泊は正解でありました。
当日は、関越経由で長野道の佐久ICで降り、141号線を野毛山高原から右に入って八ヶ岳高原ロッジにと言うコースで行きました。141号線から右に入るとこの時期、既に道路は雪道になります。
車は、レクサス LS-600h にスノータイヤを履いての4駆でありますが、普段雪道など走った事が無い上に、都会から来る車が遭難する事で有名な道路です。自ずと緊張続きの運転でしたが何事も無く無事到着しました。
もし私の愛車アウディーであったら、4駆ではありますが、車高の低さからこの雪では走行不能に陥っていたと思います。
翌日土曜日は、深深と降り続く雪で、午後5時開演のコンサートまで何もする事が無く、コンサートの前に酒を飲むわけには行かず、ただ食べるだけ、折角の環境ながら古女房では、読書三昧以外にやる事も無いと言う貴重な体験でした。
神尾真由子ですが、チャイコフスキー・コンクールで優勝した後、その記念コンサートで、新日フィルをバックに演奏したチャイコフスキーとシベリゥウスのヴァイオリン協奏曲が、NHKで放送され、それを聞いて以来その素晴らしさに、ファンになってしまった経過があります。
しかし、その後の彼女の演奏する曲は、音楽的にマニアックな物の演奏が多く、発売されるCDも期待したチャイコフスキーのV協が出たのはかなり遅れての事でした。やはりそれだけ音楽への解釈と演奏に自信があるものと思います。
当日の演奏曲目もベートーベンのヴァイオリン・ソナタ7番、8番、9番の3曲で、オバサン受けする選曲ではありませんでした。ピアノ伴奏が、ミロスラフ・クルティシェフと言う人で、13回チャイコフスキー・コンクールで1位無しの2位の最高位で入賞したひとです。
神尾とのコラボレーションは素晴らしいものでありまして、既にこのコンビによるCDが発売されているので、聞いてみると良いでしょう。
神尾のステージは、トークなど全く無く、千住真理子や天満敦子のようなオバサン受けする「くさいトーク」は有りません。ステージに出てきて黙々と演奏するだけでありましたが、音楽を聴くコンサートとして清清しいものを感じました。
演奏会の後に行われる食事会には、インタビューだけでしたが、ステージ上ではすっかり大人を演出する彼女も、私服姿は全くの高校生の餓鬼と言う感じでした。それでも、マネージャーから注意されているのでしょう、行儀の悪い姿は無く、異様に大人しく口数が少ない様子は神尾らしくないと感じた次第です。
当日の座席表を見て下さい、響きの良いホールで少人数のコンサートです、音楽鑑賞に理想の環境と言えましょう。席料金は全て同じで、当日入場の時に抽選で決めます。私達の席は、28、29で絶好の席でした。この図を拡大すると座席番号が読めます。
雪を背景にした舞台 | 開演前の客席からみた舞台 |
コンサートに付随したディナーの後は、大きな薪ストーブが焚かれた、雰囲気の良いバーカウンタが至福の時を醸します。これは当然別料金です。バーテンの作る大きめの丸い氷の入ったロックグラスに注がれたウイスキー、これがまた絶品でありまして、これを飲みにわざわざ此処まで来る価値があると感じています。
当121号コラムは、コンサートの無かった月のコラムです。
この機会ですから、私の「食と音」に付いての雑談に暫くお付き合い下さい。それは、「美味いものとは何か」「良い音とは何か」に付いてです。
話をわかり易くするために「食の話」からにします。「吉野屋の牛丼」は確かに美味いですね、しかし、美味いものとして改めて机上に載せるものでは有りません。
伊豆修善寺温泉の更に奥に一軒宿的な温泉宿があり、ここの料理人は抜群でありまして、特に鮎料理は絶品です。鮎の無い時期でもここの料理人(多分オーナーと思う)はそれなりに美味しい料理を提供しますが、やはり、鮎料理に勝ることは有りません。
季節に関係の無い、何時でも出る朝食に水団があります。このスープの味がここの料理人の「ザ・料理人」心の真骨頂と思うのです。しかし、これのためにわざわざ伊豆まで行くのは流石に抵抗があります。
何を言いたいか、「味とはブランドでは無く、食べる人の感性」だと言いたいのです。その感性は、その人の人生そのものであり、その人の人生哲学から、にじみ出てくるものと言う事に付いてです。
帝国ホテルの中華レストランに「北京」と言うのがあります。私の友人で、金持ちの部類の人ですが、ここの料理を美味しくないと言います。日頃もっと美味しいものを食べているかと言うと、可也酷いものを食べていて、それが美味しいと言うのが常です。私は、ここの中華は薄味で、上品な「こく」のある料理と思っています。
横浜の中華街などで行列している評判の店が何軒かあります。行ってみると大抵は味が濃く、化学調味料の使いすぎで、とても私は付いて行けません。「美味しい/美味しくない」は、やはりその人の人生であり、生きる事への哲学から来るものです。加えて、人、夫々に尺度が違う上に、味の絶対値は有りません。だから、「貴方は、間違っている」などと、言葉にすると喧嘩になります。
それはもう、心、密かに軽蔑するしか有りませんね。それは、「味」に関してのことであり、人格とは関係無い事です。
それでは、「音」に付いてはどうでしょう。「食の味」と同じ傾向ですが、これはもう「食の味」以上に酷いもので、丸で音楽を判っていない者がオーディオを語りだすと、支離滅裂であります。工業製品が、「生音楽」と同じ音を奏でる筈は有りませんで、オーディオ機器は、如何にそれらしく再生するかであります。
ここで言う「らしく」は、まさにその人が感じる感性です。加えて、工業製品ですから「カネ」の掛かり具合が大きく違い、「カネ」を掛ければ良い物だと思ってしまう事が問題です。「俺はこれだけ労力とカネを遣った」と言う自負が先行しますから、持ち主にこの音は悪いなどと言おうものなら、大変な事になります。
オーディオ専門誌の評論なども他人の琴線を切らない様に、その心遣いが見え見えのケースが多く、不幸が不幸を呼ぶ結果になるのですが、「たかが趣味のオーディオ」だから大上段に構えない、この心情は、情けない世界と思うのです。
ジャズ演奏の場合、楽器による音量バランスの差が大きく、ライブハウスなどではほとんどがPAを使用しますから、楽器の生音を聞く機会が少ないといわれ、何が生か判らないと言います、実は練習スタジオで聴くPAを使わない音は大変素晴らしいもので、安いライブハウスとは比較になりません。
録音スタジオなどでは、この生音を如何に忠実に録音するかに勢力を注いでいます。しかし、再生の側ではこの生音を知らないファンが多く、ベースの音などは、太い音が良い音と言って再生する人を多く見かけます。それは、その人が好きな音であって、良い音ではないのです。
この情況に悪乗りするメーカーが有って、ブランド力に物を言わせて悪いものまで良いと言い、思わせてしまう。安物でも「これは良い音と言ってセールする」、文句をつけると「価格の割りに良い」と言って逃げる。高い値段を付ければイコール良いものと思わせる。
メーカー側にこんな隙を作らせてしまうのも、ユーザー側に責任の一旦があると思うのです。
各地にオーディオクラブなるものが有ります。オーディオ談議になると、正論を言う人より、声のデカイ人の意見に収斂する傾向があり、左右位相の違ったスピーカーの音が素晴らしかった、などと言う笑えない結論に至り、これも趣味の世界の話だから許すか、とも思うし、「言って上げた方が良いのかなー」などと迷ってしまうのです。私に言わせれば、「恥も知らずに大きな態度で、少しは自重したら如何だ」、と声にするのが先と思う、困った短気な性格だからです。
工業製品と感性の関係は、面白いと常々思うのです。カメラ、自動車、機械式時計、楽器そしてオーディオがそれに相当するでしょう。私は、楽器以外は結構カネを使い、熱中するほうです。楽器については、その気が充分にあるのですが、時間と才能に欠けて手付かずと言うところです。
オーディオ評論家の方々もこれらの趣味を持たれる方が多く、仕事抜きでとことん話したい方が何人も居られます。しかし、何時になったら実現出来るのか、この年になって現役を勤めなければならない、そのギャップが大きい昨今の情況であります。