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colums会長のコラム

会長のコラム 061

・バッハ・フェスティバル その2 バッハへの旅

今回のドイツ旅行は、ライプチッヒのバッハフェスタと、音楽評論家の加藤浩子氏の著書「バッハへの旅」に沿ったもので、氏の引率によるツアーでありました。
最初に訪れたバッハの生誕地アイゼナッハは、宗教改革者のルターの生誕地でもあり、最近は、日本人の観光客が多いと見えて、写真の様に日本語の道標があり有り難いやら、興ざめやら複雑な心境です。

バッハの生家、ルターの家と日本語で書かれている道標

此処アイゼナッハには、ルターが学びバッハも学んだ学校跡が存在します。バッハは、8歳までは恵まれた家庭環境で、ルターの学んだと同じ学校にも通える環境であったようです。そのバッハが、後年勤めた教会が殆どルター派の教会であった事などを考え合わせると、ルターとバッハは先生と弟子の関係にあったのではないかと想像出来ます。
私は、バッハの教会音楽を考えるとき、師弟関係あったのではないかと言う事実が大変重要な事と思われてなりません。そもそも、教会とオルガンの歴史は古く、そのルーツはキリストの布教の為のツールであった訳で、バッハがオルガンの研究者としてまた奏者として名を上げたのも一つには熱心な信者であった事に起因する事と思います。
バッハ8歳の時に父親が亡くなり、長兄に引き取られますが、長兄もオルガン奏者であったものの決して裕福ではなく、バッハの才能を見て取って自分の立場を心配する気配もあります。それはバッハが兄から音楽の技術や資料を隠れて盗み写しするエピソードも残っているからです。
このコラムで私がバッハの生涯に付いて記す事は全く無意味ですから、興味のある方は加藤浩子氏の著書「バッハへの旅」をお読みになる事を勧めます。
やがて、バッハは大きな教会に仕えてゆくようになるのですが、そもそも選帝侯などは如何に大衆にキリストを摺込もうかと常々考えているわけですから、少しでも高い能力のある音楽家をカントールとして雇いたいと願っているわけです。
この事は、日曜礼拝に参加すると良く理解できます。それはカントールの采配によって礼拝の出来不出来が大きく左右されるからです。この点、今回わたくしが体験したトーマス教会のカントールは流石と思いました。この職をバッハも担ったと思うと何かバッハを身近に感じてしまいます。
その様に考えると、あの天から降りてくる音楽、俗人に考える余地を与えない威圧的な教会音楽、そしてこの麻薬的魅力を再び聴きたくなる音楽の存在が理解出来ます。これは、もうコンサート音楽と違うものだと、極ありふれた考えに行き着ついてしまうのです。

6月15日の日曜のカンタータ礼拝のときの事です、有名なオルガン奏者「ウルリッヒ・ベーメ」を近くで聞こうとオルガンの隣に席を確保しました。そこには、既に先客がいまして、カメラを熱心にセットしていました。この人、休暇を取って一人でロスアンゼルスから来たベーメの大ファンとのことで、このフェスタの期間は毎年初日から3日間だけここライプチッヒに滞在しているそうです。
本当は、ファイナルコンサートのロ短調ミサ曲を聴きたいのだが、そんなに永く休暇が取れないとの事で、「貴方はファイナルコンサートが聞けて良いですね」と言うから、私は72歳です(少しさば読みですが)と言うと、そんな歳でしたか、私もその歳まで実現しないかも知れないと寂しそうに言っていたのが印象的で、世界的にもバッハの熱心なファンがいるものだと思った次第です。
この人は、日系3世だそうで、バッハの追っかけをやるにはドイツ語が必須で、いま一生懸命勉強しているのだそうです、昔の東ドイツ地域は特に英語が通じないとこぼしていました。私などは、元々英語も出来ないので不自由もなにもあったものでは有りませんが、「バッハ」を「バァーク」と発音する奢れるアメリカ人にバッハが理解出来る筈は無いと思っていたのですが、この方は日系人だから理解出来るのかも知れない、そんな事を考えていると私も奢れる日本人と言われそうです。

此処アイゼナッハは、城砦都市として発展してきた町で、ルターの縁の地でもあり、城砦も殆ど無傷で残っていて史跡の多いところでした。
私達は、此処に2泊してヴァイマルに移動し1泊したあと、ドレスデンへと移動します。
ドレスデンのセンパーオパーでの「ラ・ボエーム」の観劇、ライプチッヒのトーマス教会のラストコンサートとこのコラムは第3集へと続きますので、ご期待下さい。

ワグナーの「タンホイザー」歌合戦の舞台となったアイゼナッハ ヴァルトブルク城内
アイゼナッハ ヴァルトブルク城内のレストラン

鈴木信行 :すずき のぶゆき

昭和45年勤務先のアイワ株式会社をスピンアウトして独立。

磁気記録に関る計測機器の製造販売の事業を開始し、その後カーエレクトロニクスの受託設計の事業を始める。

何れの事業も順調に発展したが、会長の永年の思いであった、ハイエンドオーディオの自社ブランドを立ち上げ、現在はカーエレクトロニクスの事業を主とし、協同電子エンジニアリング(株)として運営している。

現在、協同電子エンジニアリング(株)の取締役会長として、趣味のオーディオを健全に発展させたいと真摯に研究し、開発に勤めている。

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